飛騨の宝である臥龍桜と荘川桜。
その傍らには、悠久の命を未来につなごうと奮闘する人々がいる。
桜の命に寄り添い、守り続ける桜守。
花の蔭にある、それぞれの桜守の物語を追った。

一の宮 神の御舟は はるはると 華の盛りも 長くさくらん

危機に瀕した千百年の老桜


大江哲雄さん

 


 かつては文字通り、伏せた龍のごとく、太くて長い枝を横に這わせていた。
一部は完全に地に根付き、その先は枝でありながらも幹のように力強く、上に伸びた。
そんな樹形を保っていたのは、昭和34年まで。伊勢湾台風が襲来した9月、龍の胴のような横枝が折れ、臥龍桜は大小2本の桜のようになった。とはいえ、花や葉で覆われる季節には、左右に枝が広がり南北約30m、一体の巨大な姿となる。
 推定樹齢はおよそ1100年。品種はエドヒガンで、古くは「大幢寺(だいどうじ)の大桜」と呼ばれていた。
高山本線開通の2年前、当時の大幢寺の住職が「臥龍桜」と命名。
昭和48年に国指定の天然記念物となって今に至る。
飛騨一ノ宮駅北に位置し、30年前、旧宮村が一帯を公園として整備した。
しかし、見物客の賑わいとは裏腹に、その頃から樹勢が衰え始めた。平成3年の台風では、大枝4本が折れ、幹が裂ける甚大な被害が発生。
村では大量の支柱を木にあてがい、根の保護・再生に努めたが、花は色が暗く数が減り、葉も紅葉を待たずに落ちてしまう状態が続いた。
親子二代、桜のえにしに導かれ

 平成6年から高山市合併の平成17年まで旧宮村村長を務めた大江哲雄さん。
北海道で畜産を学び、卒業後は岐阜県職員として飛騨牛などに関する研究職に従事したが、定年を機に地元に帰還。
村長となって多忙な日々を過ごしながら、臥龍桜を一人で静かに観察していた。実は、大江さんの父、稔さんは、昭和49年から2期8年村長を務め、村の人々とともに「宮村桜を守る会」を結成して桜の植樹や桜の里づくりに力を注いだ人物。
稔さんが中心となって植えた宮川沿いの桜は、今、美しい並木となって春を彩る。
 「臥龍桜に目がいったのは、父の影響かもしれませんが、一番の理由は、長年、研究職で生き物を相手にしてきたので、葉を早く落とす桜が単純におかしいと感じたからです。
それは台風の被害にあう前のことで、もとより桜は弱っていたのです。
原因を突き止めたくて、早朝でも深夜でも時間を見つけては公園でずっと桜を見ていました」とふり返る。
そんな観察を重ねて、ある日、臥龍桜の周囲では、野鳥が土をついばまないことに気付いた。
「キジなどは逃げるように去っていきました。
これは土が固く、地中がガス化しているのでは」と、地面を掘ってみると、臥龍桜の毛細根は細くまばらで、水分や養分を吸収できていないことが判明。
そこで、まずは根元が踏み固められないように公園の柵を広げ、根を育てる手だてを模索した。
「地元産の間伐材を用いたセラミック炭を活用できるのでは」と、村長室に並べた水栽培の球根で植物への作用を実験したところ、セラミック炭入りの水では、根が3倍長く育つことを確認。
これを土壌に混ぜ込むことにした。

再生を願う人々皆が桜守



大江稔さん

 



良質土壌の埋め戻し作業



 平成9年にスタートさせた土の入れ替え作業は、専門家の指導のもと3年がかりで段階的に実施。
支柱も減らした。
「炭によって土が呼吸できるようになり、3年目にはミミズが出現。
そうすると、太い根が入り乱れるように育ってきました」と声を弾ませる。
土の入れ替えが終わった翌年からは、村人総出で行う河原清掃で刈り取った葦を乾燥させ、カットしたものを桜の周囲に撒く環境整備を毎年行った。
「土が軟らかく、水がよく通れば、根に活力が出ます。
植物は、根が一番大事」と力説する。
その後も根を見続けて再生を確信した大江元村長は、平成14年に臥龍桜の回復を宣言。
 そして宮村桜を守る会は、平成16年に「第15回全国みどりの愛護」国土交通大臣表彰を受賞。
村の人々が力を合わせて村内の桜の手入れを続け、桜の里づくりに取り組んできた努力が広く知れわたった。
 こうして桜の里の一番の老桜である臥龍桜は、力強い樹勢を取り戻し、毎年見事な花を咲かせている。
平成17年、宮村は高山市一之宮町となり、臥龍桜は飛騨高山のシンボルとなって、人々の心を癒やしている。
一時は枯死が危ぶまれた桜が蘇った蔭には、人知れず愛情を注ぎ、桜を見守る人々がいた。
宮村桜を守る会の名誉会長であった稔さんは、「桜ほど人間の気持ちのわかるものは無い」と語ったという。
多くの人々の願いに応えるかのように、臥龍桜は、今年も爛漫と咲く。


  ■臥龍桜 桜まつり
・4月中旬から約3週間、「桜まつり」を開催。
4/22(日)は音楽演奏などにぎやかなステージも楽しめます。
【日時】4/22(日)11:00〜14:30
【会場】臥龍公園
・問合せ/飛騨一之宮観光協会 TEL.0577-53-2149

 

■講演会 「臥龍桜を語る」
【日時】4/22(日)10:00〜
【会場】飛騨位山文化交流館 交流サロン
【講師】大江 哲雄氏
・問合せ/一之宮町まちづくり協議会 TEL.0577-53-2424

耐えて生き抜く尊きを学ぶ


岐阜大学名誉教授
林 進さん
樹木医学者 技術者
県内では臥龍桜、荘川桜、淡墨桜、
揖斐二度桜、中将姫誓願桜などの
保護を指導している。


 平成3年の台風により折れた枝、曲がった枝、裂けた枝などが多数発生しました。
折れた枝については、切断箇所を丁寧に切り落とし、腐りが入らないよう処理をして新しい枝が芽吹く状態にしました。
曲がった枝は、クレーンでゆっくりと、それこそ1p単位で引き起こし、生きている部分がねじれないよう配慮しながら立ち上げました。
裂けた枝については、内部がくっつくことはありませんが、外側の生きた部分(形成層)が成長していけば傷口をふさぎ、覆ってくれることを目指して、薬剤を塗布した後、緑化テープ(包帯)で巻き、支柱に固定しました。
「必ず生き続けるんだよ」、私は臥龍桜に語りかけながら、この作業に従事しました。
一時は支柱だらけになりましたが、一本立ちできるようになった枝や幹から順番に取り外し、今のような姿になっています。
 枝が傷つき、折れれば根も衰弱します。
地上部だけでなく、根を育てなければ桜は回復しません。そのため、上部の姿を整えた後は、ひたすら根の回復と成長に力を注ぎました。

これには、微生物の力を借りるしか方法はありませんでした。
目に見えない土の中の世界、技術的にも未知の世界に挑んだわけです。
しかし、臥龍桜には多くの方々の魂が込められています。
「ひとりではない、たくさんの味方がいてくれる」、その思いが私を支えてくれました。
そして桜もそれに応えてくれたのです。
 人の思いに応えてくれる桜、過酷な状況に耐えて生き抜く力を与えてくれる桜、厳しい冬が過ぎれば再生の花を枝いっぱいにつけ「闌(たけなわ)の時」を告げてくれる桜、臥龍桜は、私にとっては「いのちの愛おしさ」と共に、「生き抜くこと」を教えてくれる存在です。
この思いは、きっと今を生きる地元の方々、この地に生まれ、生き、そして土に還っていった無数の人々と共有できるものだと、私は信じます。


ふるさとは 湖底(みなそこ)となりつ 移し来し この老桜 咲けとこしへに 高崎達之助

近代化と自然の共生


電源開発株式会社 初代総裁
高碕達之助氏


 御母衣湖畔の展望台にそびえる2本の大樹は、いずれも推定樹齢450余年のアズマヒガンザクラ。
今は湖底に沈んだ旧荘川村中野地区の光輪寺と照蓮寺の境内にあった桜で、1960(昭和35)年に現在の場所に移され、『荘川桜』と命名された
移植とその後の管理は、Jパワー(電源開発)御母衣電力所が行い、移植を手がけた造園会社(庭正造園)と協力しながら桜を守り続けている。
 1961(昭和36)年竣工の御母衣ダムは、高さ131mのロックフィルダムで、最大出力215000k Wを誇る水力発電施設。
建設当時は東洋一の規模とも言われ、水没予定地から救い出された荘川桜とともに、全国に名を知られている。
当初は水没する運命にあった桜が命を長らえた奇跡の蔭には、桜を救うために力を尽くした人々の存在があった。


老桜を移す世紀の大移植


移植前の光輪寺の桜



  高度経済成長まっただ中の1959(昭和34)年、建設中の御母衣ダムの工事現場を訪れた電源開発株式会社 初代総裁 高碕達之助氏は、寺の境内の巨桜に目を留めた。
桜が湖底に沈んでしまうことを惜しんだ高碕氏は、何とか救えないものかと、当時「桜博士」と言われた桜研究の第一人者、笹部新太郎氏に懇願した。
思いを受け止めた笹部氏は、世界植樹史上、例のない移植工事を決意。豊橋市の植木職人丹羽政光氏を筆頭に、選り抜きの植木職人10人とともに移植を敢行した。
 いずれも樹齢400余年の老桜の総重量は73t、移動距離600m、高低差50mの大移動であった。
当時、多くの専門家が「不可能」と首を横に振った大規模移植工事は1960(昭和35)年12月に完了した。
 『荘川村史』は、工事の様子を次のように記している。
─ 樹幹や枝をわら縄で丁寧に巻き、100mも張っている根を伐って、直径5mの根回りは完全に巻かれた。
40tという巨大な桜を鉄ソリに乗せて、運搬のためわざわざ新しく造った路を、コロを使ってブルが少しずつ引きずって、山の中腹、現在の中野展望台まで約200mを曳き上げたのである。
 その冬、人々は祈るような気持ちで荘川桜を見守ったことだろう。
無事移植できたとはいえ、根も枝も大きく伐られてしまった老桜の姿は痛々しく、地元の人々も、それが根付くとは思えなかったという。
しかし、翌年4月、ふるえるほどのか細い枝に、奇跡の若芽が出た。
日を追う毎に桜は力強く若芽を膨らませ、花を咲かせたのである。
 移植の指揮を執った笹部氏と、発起人である高碕氏は、1962(昭和37)年の水没記念碑の除幕式に出席。
荘川桜の横には、そのときに高碕氏が詠んだ「ふるさとは 湖底(みなそこ)となりつ 移し来し この老桜 咲けとこしへに」という歌が残されている。
桜の生命力を信じて


自らを櫻男と称した
笹部新太郎氏(左)と
東海一の庭師と呼ばれた
丹羽政光氏(右)


 新しい土地に根付き、荘川桜となって大きく枝を広げた桜は、それから半世紀以上、美しい花で人々を楽しませている。
移植50周年の年には、「エネルギーと環境の共生」のシンボルとして東京千鳥ヶ淵やJパワー本店に荘川桜二世が植樹された。
 移植から58年、近年では、マスタケ(キノコ)による樹幹内の腐朽などの影響により、以前に比べて樹勢は衰えた。
毎年開花はするものの、満開の花が見られるのは隔年ペースとなっている。
かつては庄川沿いの低地で400年余を生きてきた桜だが、現在の高台に移植されてからは、御母衣湖側からの強風被害を受けやすくなった。
昨年10月の台風21号襲来時に照蓮寺桜の太枝3本が無残に折れてしまったことは記憶に新しい。
現在、Jパワーでは、土壌改良による樹勢の回復、強風や雪から枝を守る支柱・保定方法の改善に努め、荘川桜を後世に残していくための維持管理に力が注がれている。


活着に必要な枝以外を取り払い、移動の際に傷つかないようムシロを巻く。
根は四方10m幅で取り、2枚の畳を底に当て、土ごとムシロを幾重にも巻いた



協力・写真提供/J─POWER[電源開発(株)]

命ある限り荘川桜を全力で守りたい


 植木職人の祖父、丹羽政光は、荘川桜の移植を手がけた4年後に亡くなり、父も早逝

私は移植工事の翌年、荘川桜が芽吹いた年に生まれ、苦労している祖母と母のもと兄とともに家業を継ごうと決意しました。そして東京農業大学に進み造園学科で学びました。
卒業論文のテーマは「荘川桜について」。
それまでは荘川桜について、祖父と父が仕事で移植に携わったというくらいしか聞いていませんでした。
実際に見たことがなかったので現地に足を運んで見ると、荘川桜は約四半世紀を経てみごとに蘇っていました。
通常、桜は枝を切ると、そこから全体が腐ってしまうと言われていますが、移植時はほとんどの枝が切られていました。
当初はどちらかが枯れることも想定して2本が移植されたといいます。
それが、みごとに2本とも枝を広げていたのです。
私にとってはまったくの驚きでした。
祖父は自分の持てる知識や経験を、全てこの移植に注ぎ込んだのでしょう。
重機もない時代、国内外でもあまり例がない上、しかも扱いの難しい桜ですから、大変な覚悟で臨んだと思います。
奇跡のように甦った荘川桜は、私にとっても大切な宝物です。
 祖父と父の仕事を受け継ぎ、当社は年1〜2回の数日間、荘川桜の手入れをし、Jパワーの職員や地域の人に守られてきました。昭和61年からは私が集中手入れを担当させていただき、早くも30年が経過。
現在では樹木医より土壌の改良などの助言を受け、枯損した箇所の保護、施肥、消毒、剪定なども施しています。
また10年に一回ほど支柱の取り替えおよび、ウソ(鳥)による花芽の食害を防ぐ雪吊り支柱(ロープ)を設置するなど大掛かりな作業もしています。
しかし樹齢450年といわれる老桜、豪雪による枝の折れなどにも悩まされ、近年開花はするものの、満開の花が咲くのは一年おきになっています。
 現在、ダムに沈んだ村の記憶を留める方は少なくなってきていますが、2本の桜は今も村の象徴として生きています。
私も命ある限り、この荘川桜を全力で守っていきます。
いずれ次代の甥や息子に役目を引き継いでいけたらいいと願っています。



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