年賀状や書き初めの風習が残る正月は、書道に親しむ好機。伝統文化を誇る飛騨高山には、書の文化も息づき、書家もたくさんいます。今回は、地元近代書道に大きな足跡を遺した書家 田邊小竹と、高山の書の文化に迫ります。


旅館の主の、もう一つの人生




 高山市の国分寺近くにある旅館田邊は、出格子や囲炉裏など、高山らしい佇まいが魅力の老舗旅館。
最近は、外国人観光客にも大人気だ。
そんな旅館内には、見事な書が至るところにあり、人々の目を楽しませている。
書の大半は先代の作品で、落款には「小竹生」や「釋小竹」とある。
生は小生などと同じ謙譲の意、釋は仏語の書に用いられる表現なので、名は「小竹」。
この人物こそ、今も多くの書家から小竹先生と慕われる地元近代書道の師である。
小竹の実の娘である旅館田邊の女将 晶子さんや、小竹を師と仰ぐ地元書家の桐山吾朗さん、川上喜八郎さんの話から、その人生や人物像をひもとく。
書道界のホープ?が高山へ
  小竹は雅号で、本名は田邊酉三。
1909(明治42)年酉年に、岐阜県羽島郡笠松町で生まれ、旧姓は松原。
岐阜高等農林学校(現:岐阜大学農学部)を経て、横浜市の生糸検査所に勤務。
職場の書道愛好会を指導に訪れた書家 吉田苞竹氏に才能を認められ、書生となって腕を磨いた。
「子どもの頃から書道が好きで上手だったそうです」と晶子さん。
桐山さんは「吉田苞竹は、近代書道の第一人者で、書壇院の創設者。
小竹先生は、その一番弟子だったはず」と語る。
小竹の名も、苞竹から授かったもので、書壇院創設当初には、塾長、事務長として後輩の指導も行ったと、他の門弟が『書壇発刊70周年記念誌』に記している。
ちなみに書壇院が開催する「書壇院展」は、有数な公募展のひとつで、毎年東京都美術館で開催され今年で84回を数える。
 それほどの才を持ちながら、小竹は高山で旅館の主人になった。
晶子さんが叔母(小竹の妹)から聞いた話では、次のような経緯があったという。
「笠松の実家では、かねがね独身で書生という身分でいる兄の将来を心配しており、折から、持ち上がった田邊家との縁談を好機に、上の兄が苞竹先生のお宅へ行って話をつけたようです」。
まもなく苞竹氏が急逝されたこともあり、小竹は兄が勧めた田邊家の嗣子(あとつぎ)である娘と結婚。
しばらくは東京で新婚生活を送ったが、1939(昭和14)年に妻の実家に入って家業を継いだ。
それが旅館田邊である。
晶子さんによれば、ここは叔母(前述の小竹の妹)の嫁ぎ先の舅が出張の際、ひいきにしていた宿で、当時、創業直後に主が亡くなり、母親を手伝う働き者の娘を見て、小竹を婿にとひらめいたらしい。
後年、桐山さんが、高山人となった事情を小竹本人に尋ねた折には、「女房が、かわいかったからね」と、笑いながら答えていたそうである。
地元の書道界を牽引

 旅館の主となった小竹は、板前が出征した時には板前仕事も担った。
一方、書にも励み、書くだけでなく、指導にも当たった。
発足早々の新制中学(松倉中学校の前身)で書道教師を務め、自宅でも書道を教え、飛騨書道連盟を創設して初代会長となった。
現在、連盟の代表を務める川上喜八郎さんは「連盟創設は戦後間もなくのことで、小竹先生のお力と、これまで飛騨に根付いていた書道文化の強さを感じます。
連盟ができたのは、多くの人に慕われた小竹先生のお蔭」と語る。
晶子さんは「私が小さい頃から、父は、毎晩書を書いていました。
考えてみれば、仕事もしながら、頑張っていたんですね」と偲ぶ。
 小竹は、高山に来てからも書壇院の評議員、書壇院展の審査員などの任に当たり、しばしば上京した。
しかし、力を注いだのは高山での活動で、連盟の仕事や後進の指導、展覧会の開催などを通じて、地元書道界に貢献した。
一方で、漢詩の詩作にも取組み、還暦記念に出した全編自作、自刻による木版刷の『小竹詩抄』をはじめ四編の漢詩集を上梓した。

墨跡ににじむ書の心

 1970(昭和45)年には、旅館の仕事を晶子さん夫婦に任せ、郊外の下岡本町に家を建てて、夫婦で隠居暮らしを開始。
高校教師をしていた桐山さんが、小竹のもとで書を習い始めたのはその頃で、「私のほか、指導を受けるお弟子さんが10人程いました。先生はにこやかな優しい方で、とても熱心に教えてくださいました。
稽古が終わると、奥さまがお茶を持って来られて、そのまま一緒に談笑されるのですが、お二人でよくうなずき合われて、とても仲の良い、素敵なご夫婦でした」と話す。
晶子さんも「父は穏やかで怒らない人」と懐かしむ。
 当時の小竹は、連盟からも退き、晴耕雨読の静かな日常を過ごしていた。
1975(昭和50)年に発刊した『小竹詩抄 第三輯』の序文には、1972(昭和47)年から黒潮吟社に入会して漢詩も本格的に勉強し始めたことが書かれている。
晶子さんは「小竹詩抄は四輯あり、二輯までは文字もすべて父が自分で彫っていましたが、三輯からは、あまりに大変なので印刷にしたみたい」と笑う。
古希には『小竹展』、74歳の時には『墨心会展』と、展覧会も開催した。
「私たち弟子も出展させていただき、嬉しかったです」と桐山さんはふりかえる。
生涯、書に情熱を傾け、学び続けた小竹が亡くなったのは、1985(昭和60)年、76歳であった。
その作品は、多くが旅館田邊に遺され、33回忌を経た今も人々を魅了している。
墨跡ににじむ優しさや力強さは、書の専門家でなくても心惹かれ、近ごろ多くなった外国人の宿泊客も、国や文化が違っても心に響くものがあるのか、小竹の書作品の前でしばらく足を止めて見つめるという。
 旅館田邊の玄関には、小竹が「大道無門」と大書したついたてが置かれている。
それは、仏道や真理に決まった入り方はないという意味の禅語。
小竹の遺作が、今日の私たちに大切な生き方を示唆しているようだ。




書への誘い 見よう、書こう、楽しもう!書への誘い







  書道教師として長年教鞭を執り、現在も高山西高等学校で書道を指導する川上さんは、「書は漢字とともに変化してきたもので、始まりは中国の象形文字。
変化の過程で篆書、隷書、楷書、行書、草書などの書体が生まれ、歴史の中で芸術へと高められました。
日本に伝わると、草書から仮名が作られ、独自の仮名書道も加わりました。
書は、軸として茶室に掛けられるなど、日本文化と関わりが深く、漢詩や仏教とも切り離せません。
書という文字の芸術から広がる世界は豊かです。
たとえば、隷書で書かれた新聞名や看板、印鑑に彫られた篆書の文字などを、多くの人は日常的に見ているはず。
書の文化は意外と身近です」と話します。
周囲を見渡して、気になる文字があれば、字体や内容をひもといたり、書き写したりすると、世界が広がるかもしれません。
川上さんは「手を動かして何かをすると生活にハリが出てきます。
筆を持つことが生きがい≠ニ写経を日課にされた方もいます」と明るい笑顔。
 最近は、漫画や映画の影響もあり、複数のメンバーが一緒に巨大な作品に挑む書道パフォーマンスも人気。
川上さんは、自身が指導する書道部の生徒たちがパフォーマンスをしたとき、「今はこんな楽しみ方もあるのか」と感心したそう。
桐山さんも、「若い人が書を楽しんでくれるのは嬉しい。
字を書くことすら少なくなっている時代に、こうしたものが支持されることに、可能性を感じます」と相好を崩します。
そして、「字を書く、字に親しむ、字を愛するという文化は、これからも受け継がれなければなりません。
字は人柄が表れてしまう不思議なもので、毛筆には味があり、体温が感じられます。
若い人や外国人にも書道に興味がある人はいるので、私たちも情報発信の努力を怠らず、営々と続いてきた伝統を、次の世代に伝えていかなければ」と力強く話してくれました。
吉書初めのすすめ

一月二日、年が明けて初めて書を書く「書き初め」は、吉書始めとも言われます。
今回、巻頭特集でお話をうかがった桐山先生と川上先生の作品を紹介します。
平成30年の幕開けに皆さんもチャレンジしてみませんか。



 

寿山福海(じゅざんふくかい) ※刻字


桐山吾朗さん 雅号 桐山竹翠
昭和12年高山市生まれ。元 斐太高等学校長。退職後、中国遼寧省瀋陽師範大学の日本語講師として渡華。帰国後、学校法人飛騨学園理事。現在も書に勤しむかたわら古典文学や短歌の講師を務める。※刻字とは、自書を板に刻し彩色するもの。書の総合芸術と呼ばれる。



 

長楽未央(ちょうらくいまだつきず)

川上喜八郎さん 雅号 川上素雲
昭和23年高山市生まれ。
高校教諭として務めた後、高山西高等学校で書道を教え、また書道部の顧問として指導にあたる。
飛騨書道連盟の代表。
人生の中にある楽しみは、永くこれからも尽きることがないという永続性を願うことば。



飛騨出身の著名な書家たち

飛騨に生まれ、現在全国で活躍される書家の皆さんとその作品を紹介します。



茂住菁邨(修身)さん
昭和31年飛騨市生まれ。
青山杉雨に師事。
日展会友(入選18回)。
内閣府大臣官房人事課
・内閣官房総務官室 辞令専門職。


 
「四神」 縦171cm×横291cm
甲骨文字の龍を青龍、鳳を朱雀、虎を白虎、亀と巳を絡めて玄武。四獣神に生命を吹き込み、結界が破れ、荒ぶれたこの世を護ってと願う。
[平成29年 高山市に寄贈]

 白と黒のモノクロの世界、瞬間的偶然性の法則に心地よく縛られ、文字に潜む精靈を呼び覚まし、何人かに魂のメッセージを伝えられる所に書の魅力がある。
 語句と作家と文字の三位一体≠ェ、調和し融合できた時、作品は光を放つ。
二次元の世界を、文字の精靈と語り、三次元の世界まで高揚させて、現代社会に微かな光をかざしたい。
 『文字性靈』の語は、文字に宿った書の魂の意、青山杉雨先生の著想された語句。
書道を志して40年、ようやく、この語句が感じられ、自分の使命が見えてきた今日です。



P川賢一さん
昭和42年高山市生まれ。
杉岡華邨に師事。
大阪教育大学准教授。
日展会友(入選11回)


 
「飛騨びと」 縦180cm×横60cm×4枚
第47回 臨池会書展 2016年
かに(尓)か(可)くに(二) 物は(八)思は(者)じ 飛騨人の
う(宇)つ(川)墨縄の(農) たゞ一道に
『万葉集 巻第11 2648』
歌意 あれこれと物思いはしまい。飛騨の工匠(たくみ)が墨縄で引く線のように、ただ一筋に思おう。▽墨縄に寄せた歌
『万葉集(三)』全5冊 岩波文庫 より

 日本語の美しい調べを、日本人の手で育まれた仮名文字でより美しく書きたい、そう思われる人は少なくないと思います。
三千年以上の歴史を持つ毛筆を使用して書かれた文字には、何か人を癒すものがあり、心がほっとします。
そんな書を書きたい、飛騨の人々と共に学んでいきたい、そんなことを最近考えることが多くなりました。

 

新井龍雲(辰巳)さん
昭和51年高山市生まれ。
劉蒼居に師事。
日展会友(入選11回)。
読売書法会理事。
日本書芸院評議員。
書道研究玄心会副理事長。
十駕社主宰


 
「郭翼句」 縦120cm×横90cm
郭翼の句より 仙人杏花満樹 ・ 處士楊柳當門
 書は瞬間的な芸術であり、一作一面貌な部分が最大の魅力でしょう。
一画目を入れた時の筆のバネによって全てが決定されます。
その時の心情や呼吸・筆の種類によって作品は千差万別さまざまに変化します。
 また、書は白を美しく魅せる芸術でもあり、美しい白を先に決定することによって黒も自ずと定まります。
もちろん、自由に字形を歪めることは許されず、日々の古典臨書で養った基礎の上に成り立っていることは言うまでもありません。

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